モーシェ・フェルデンクライス Moshe Pinchas Feldenkrais (May 6, 1904 ~ July 1, 1984)
フェルデンクライス・メソッドの創始者。東欧地域で生まれ、後にイスラエルに移住。
パリのソルボンヌ大学にて物理学の博士号を取得。ジョリオ・キューリーの研究所に所属しました。その頃、ヨーロッパに柔道を広めに来ていた嘉納治五郎と出会い、黒帯を取得。フランス柔道連盟の設立者の一人となります。第二次世界大戦中はイギリス海軍で働き、1946年まで、スコットランドで対潜水艦の兵器研究の科学担当者としてソナーの改良についていくつかの特許を取る業績を上げました。同時に同僚の軍人に護身術を教えていました。
しかし、潜水艦の滑りやすい甲板で、若いころサッカーで痛めた膝の古傷を再び悪化させます。
医師には再び運動ができるようになるのは難しいと言われ、手術を勧められますが、彼は手術を拒否して、自ら治す試みをしようと決意します。
彼はある特定の動きが彼の状態を悪化させたことは分かっていましたが、まだ断片的に理解していただけでした。しかし、気づきの無い動きが再び怪我をさせる要因になっているのに違いないし、十分に気づきを発展させたなら、それを修正することができるに違いないと思いました。
そこで彼はベッドに横たわり、小さな動きを実験しました。そして小さな動きで体のすべてパーツの間の無意識的な微細なつながりを感じることができるようにしました。
そして生物学と神経科学を研究して、物理学で学んだこと、柔道から学んだことを補いました。このようにして、フェルデンクライスは自分の動きの癖を再教育し、効率的に楽に歩くことを学習しました。彼はそのプロセスで、学習のプロセス自体を理解しました。それが後にメソッドとして発展していくものとなります。
その後、彼は自分の発見したことを他の人とシェアし始めます。それは、講義、実験的なクラス、一対一のワークを通して行われました。
海軍事務所を退職し、ロンドンで民間で働きます。そして自分でリハビリしたことで、柔道の練習が出来るようになりました。国際柔道委員会の地位から、科学的に柔道を研究し始めます。そこでは彼が自分でリハビリを行ってきたことを通して得た知識が生かされました。
1949年 フェルデンクライス・メソッドに関する最初の著作「体と成熟した行動:不安、セックス、重力、学習に関する研究」Body and Mature Behavior: A Study of Anxiety, Sex, Gravitation and Learning.が出版されます。
この時期に、 G.I.グルジェフ、F. M.アレクサンダー、エルザ・ギンドラー、ウィリアム・ベイツなどのワークについて研究します。そしてスイスに渡りハインリッヒ・ヤコビーと研究をします。
1951~1953年 フェルデンクライスはイスラエル軍のエレクトロニクス関連を指導するためにイスラエルに帰国します。
1954年頃、テルアビブに定住し、初めてフェルデンクライス・メソッドを教えることだけで生計を立てました。ロンドンで書き始めていた「The Potent Self」を断続的に執筆するようになります。
1955年頃、アレクサンダー・ヤナイ通りのスタジオでアウェアネス・スルー・ムーブメントのクラスを常時開くようになります。ファンクショナル・ムーブメントのレッスンは母と兄弟の住むアパートで行いました。
1957年始めに イスラエル首相のデビッド・ベン・グリオンにレッスンを行い始めます。ベングリオンが頭で逆立ちする写真が有名になりました。
1960年代から1970年代、そして1980年代に入るまで、フェルデンクライスメソッドをヨーロッパ、北米に紹介します。
(1972年にはエサレン研究所でヒューマン・ポテンシャルのトレーニングでアウェアネス・スルー・ムーブメントを行います。)
自分の代わりになるティーチャーを養成することを始めます。
1969~1971年テルアビブで最初の13人のティーチャーのグループをトレーニングします。
1975~1978年、サンフランシスコで65人のティーチャーを養成します。
1980年 マサチューセッツ州のアマーストで235人の生徒がティーチャートレーニングコースを始めます。しかし、1981年、彼は病気のためそれを最後まで続けることが出来きなくなりました。
3年に渡って何度も起こった卒中から自分でリハビリを行い、それは彼が故郷のテルアビブで亡くなるまで続けられました。
今日では、フェルデンクライスのプラクティショナーは2000名以上となり、世界中で教えています。